地球の中に暮らす感覚を持つために―環境を知るとはどういうことか 流域思考のすすめ 養老孟司/岸由二


私たちは地球で暮らしていますが、自分の住んでいるところを指すのに、地球を元に話すことは少ないのではないでしょうか!?

目次
まえがき 養老孟司
第1章 五月の小網代を歩く
第2章 小網代はこうして守られた
第3章 流域から考える
第4章 日本人の流域思考
第5章 流域思考が世界を救う
第6章 自然とは「解」である
エピローグ 川と私 養老孟司
あとがき 岸由二

あまりにも知らな過ぎるのかもしれません。私たちが日々暮らしている地球について、自然や地形、様々な生態について。日ごろから意識して生活している日本人って、現在は、そんな方ってなかなかいないのではないでしょうか。インターネットとか、テレビとか、ゲームとか、お金儲けなんかに没頭して、環境というものに目を向けなさ過ぎているのかもしれません。
そもそも、環境ってどこに目をつけたらいいのでしょうか?
Co2削減とやら、エコポイントとやら、ハイブリッドカーなんかで環境問題に取り組んでいる姿勢が、よく報道されているのですが、本来の環境って、そんな切り口ではないはずです。
Co2削減したからって、空気がすぐにきれいになるわけないでしょうし、エコポイント貯めたからって、地球温暖化が止まることもないでしょうし、ハイブリッドカーだって、Co2を排出していることに変わりはないわけで、環境問題って、もっともっと別の角度から見るべきなのではないかと思います。
そんな気持ちにさせてくれたのが、この本ってことなんですが。
テーマが「流域思考のすすめ」。この概念は、とっても興味を持たせてくれます。
特に日本は、一級河川が100以上もある国だそうで、その周辺に集落があって、人々はそこで暮らすようになったってわけなんです。だから、昔の集落というのは河川で分けていたそうなんですね。今でいう、一丁目と二丁目とかそんな感じ。
言われてみればそうですよね。昔は、川を渡るには舟がないといけないわけで、いちいち舟を漕いでいかなければならないのは、ちょっと面倒。だから、生活単位が河川で区切られていたというのはうなずけます。
それが、橋ができたとか電車ができたとかで行き来が自由になって、河川で区切る必要がなくなったから、そんな概念はどっかに行ってしまいましたが、自然は本来、河川単位で考えるものなのかもしれません。
そう、それが「流域思考」と本著で示している考え方。
そんなに広くない日本で、100以上もの一級河川があれば、人が住むところは、どこかの河川の流域に属しているってことになるのではないかと思います。関東平野だって、利根川や荒川、多摩川なんかの流域だし、他の平野にも、必ずと言っていいほど一級河川が近くにあります。だから、自然と考えるには、河川の流域単位で区切るのが都合がいい。言われてみれば、そりゃぁそうだってことになりますね。
何でそんなことを考えるかというと、私たち人間は、地球で暮らしている以上は自然と共存する必要があるわけで、それには、流域単位で考えるのがいいのではないかと思うからです。そのためには、Googleで検索しても得ることのできない生の情報、つまりは、実際に行ってみて体験する必要があるわけです。
本の中に出てくる小網代というところは、三浦半島に位置する場所で、写真も掲載されているのですが、本当にたくさんの自然が残っていて、植物も、昆虫も、自然そのものって感じです。そんな小網代も、つい最近は危機にさらされていたんです。リゾート開発計画が打ち出されて、ホテルやゴルフ場なんかになるところでした。いろんな経緯があるでしょうが、最終的には当時の県知事が守ろうと言ってくれて今でも小網代の自然は保たれたままになっているのです。
ここは、大都市の横浜や川崎がある神奈川県でのお話。そんなところに、こんな自然があるんだって思うと、ちょっと嬉しくなっちゃいますね。
地球の中に暮らす感覚を持つために。
環境を「流域思考」という観点で論じたこの著書の切り口は、また違った角度からだったのですが、いろんな気づきがありました。
流域単位で環境を守るって、地域の防災計画とかにも役立つような、そんな視点で対策を練るのもありかなぁって思ったりして。今は、何でも数値できれいとか、汚い川とか判断されてしまいがちですが、本当のところはどうなんだろうか。河川を見た時に、その流域を見てみるのも、楽しみの一つになりそうな予感がしました。
大地を構成する流域から考えよう。
河川を探索したくなる気持ちになる一冊でした。
環境を知るとはどういうことか (PHPサイエンス・ワールド新書 3)
4569773052


byゴリクン。
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